一枚の写真遺産

観心寺
昭和18年観心寺

今日2020年8月15日は戦後75年を迎えた。
終戦70年に「一枚の自分史 戦争体験」制作委員会に編集委員として参加し発刊のお手伝いをさせていただいた。それから早くも5年が経過した。
同書に掲載したのは祖父が満州に居住していた時の物語であるが、上の写真はその後日本に帰国した後の一枚である。

祖父の遺品整理で押入れの奥の箱から出てきたのがこの「一枚」である。
昭和18年8月28日 於観心寺、また「昭和18年度国民学校修了者錬成輔導会紀念」と写真に刻まれている。最前列の真ん中が祖父で、ペンでマークされていた。

祖父は鉄筋工事業者として満州に渡り、建国間もない地で数々のビルの建設にあたった。戦火が激しくなり建設工事がなくなった後は、軍属として橋や道路の補修などを行っていたそうである。昭和13年ついに民間人を守ることができなくなった陸軍は祖父らに帰国を命じた。
帰国後大阪府堺市に戻り、鉄筋工事の経験を若者たちに伝えようと「堺国民職業指導所」の指導員となったのである。

さて写真の経緯はそのくらいにして、この「一枚の自分史」につけた題名「写真遺産」についてである。
国民学校修了者たちが堺から河内長野の観心寺まで足を運び、しかも楠木正成の銅像の前で何故記念写真を撮ったのかをご存知の方はどのくらいいるのだろうか?戦後75年の今、写真を見ただけで説明できる人は殆どいなくなってしまった。
楠木正成が後醍醐天皇を助け、建武の新政(中興)の立役者の一人であった事、天皇への忠誠を最後まで貫き通し、兵庫県湊川の戦いで足利尊氏に敗れ命を落とした事などは歴史の教科書の数行でご存知だと思う。
戦時中の天皇への忠誠心を養うプロパガンダ教育に、この史実をもとに楠木正成を「楠公」と神聖化し国民学校の教科書に何ページにも及ぶ記載がされた。

太平洋戦争の末期「神風特攻隊」は、湊川での兄弟の最後の会話として残る「七生報国」(七回生き返り国に報いる)の鉢巻きを締め敵艦に向かって散っていった。
特攻隊のみならず、民間人も例外はなく国民学校を修了した人たちも、この楠公の銅像前でお国のために盡すことを誓わされたのである。

この写真はそんな時代が本当にあったのだという歴史の事実と同時にここに写る人たちの生きた証を伝える貴重な「写真遺産」の一枚なのである。

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